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『羊をめぐる冒険』(村上春樹)

凡庸なものと非凡なものとの往来がこの作品の主題なのでしょう。
あるいは、名前=意味の獲得についての物語でしょうか。

ガールフレンドの死亡記事を見つける場面から始まる冒頭のエピソード「水曜の午後のピクニック」では、彼女の無名性が何度も語られます。
誰もが名前を思い出せず、“僕”すらも「名前は忘れてしまった」ことがあえて強調される一方で、彼女自身は“僕”にとって特別な存在でいたかったであろうことが婉曲的に描かれています。
このエピソードそのものが本編に関わることはほとんどないのですが、彼女の無名性と抱き合わせの形で現れる“僕”の心のあり方は、作品全体を貫きます。

“僕”は、名前を付けたがりません。
文体の一つとして「妻が」「共同経営者が」と語っているだけでなく、飼っていた猫にも名前を付けていないのです。
妻と別れることになった根本的な原因もそういう“心を閉ざした”態度なのでしょう。
一方で、元ガールフレンドとの会話は詳しく覚えていて、出ていった妻のスリップがかかっている場面を想像し、無名の猫を預ける時には餌の種類や時間を詳細に指示します。
つまり、大切に想っていることを自分自身にさえ悟らせたくない、だから名前も付けない、というような心のあり方です。

一般的に、名前には別の意味もあります。
本質を表すものでもあり、誤って付けると本質を失うものでもある、という意味です。
“僕”にとっては、鯨のペニスがそのような“名前”にあたるものでしょう。
全てを展示できないからと言ってペニスだけが展示される「絶望」を避けるために、「我々は鯨ではない」と考えるようになります。

ただし、本質を見つけ出す能力を“僕”が持っていることは耳のモデルのガールフレンドに出会うエピソードで示され、彼女に導かれて“羊”の探索にも成功します。
これは、能力があるのに普段は使おうともせず凡庸に甘んじている、という意味での無名性。
彼女との会話を通して“羊”の探索に向かう決意を固める場面は、この無名性からの脱却も意味する重要な転回点ですが、冒頭エピソードに準じて「日曜の午後のピクニック」と名付けられています。

ところで、巨大組織の陰謀に関して言えば、“僕”が関わり始めた頃にはほとんど決着がついていました。
“僕”が果たした役割は一体何だったのでしょうか。
“僕”が“羊”の探索すなわち“鼠”の探索を命じられる契機は“鼠”からの依頼であるのに、探索が迫っていることを知った“鼠”によって事件そのものはほとんど解決され、結果的にはそのために呼び寄せられたのだと考えるしかない最後の会話ですら“僕”の努力によって“鼠”が無理に呼び出されるという形をとります。
この点は、作者の意図なのか作品のほころびなのかの判断が付きません。

そもそも“羊”とは何なのでしょうか。
探索される特別な“羊”は、「意志」そのものであり、非凡さの象徴でもあります。
この“羊”が紛れ込む普通の羊たちや羊男の羊とは、むしろ凡庸さの象徴でしょうか。
羊男においては、(邪悪な)意志の放棄を意味するのかもしれません。
“鼠”は、弱さ故に“羊”に魅入られますが、弱さを愛するが故に“羊”を拒否した、と語ります。
このあたりもよく分かりません。

結局、よく分からない所は、作品の主題にとっては一つの道具立てに過ぎないのかもしれません。
本当の物語は、“僕”の心のあり方の変化なのでしょう。
多くを失って取り返しがつかない程に変わってしまった“僕”の悲しみが表現される最後の場面には、深く共感せざるを得ません。
妻と別れても仕事を失っても淡々としていた“僕”が、“鼠”は元気だという虚構をジェイに語り、一人になって泣きつくすのです。
“羊”が象徴したものとは違う意味での非凡=かけがえのなさを、表も裏もなく全身全霊で感じているのです。

村上春樹全作品 1979~1989〈2〉 羊をめぐる冒険

村上春樹全作品 1979~1989〈2〉 羊をめぐる冒険


2007-05-07 15:07  nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(1)  共通テーマ: [過去によんだ推奨本]

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コメント 2

chishu

こんにちは。

『羊』の主題は"喪失感"か"喪失"そのものなんだと思います。

‥‥思うに、たぶんわたしは村上春樹を読んで以降、小説を読むとき「主題」とか「教訓」とかについてガンガン考えながら読むことをやめたんだと思います。考えないで読んで、読み終わったあとに連れてこられた地点でゆっくり考えると「喪失感」みたいなのがある、強いていえばそれが「主題」みたいなものかな、と思うようになった気がします。

でも、ときどきは主題についてガンガン考えた方がいいような気が、この記事を読んで、して来ました。近いうちに再読しようと思います。

(こないだ北海道は美深[びふか]の、『羊』の舞台だろうといわれているところに行ってきました。よろしければ、どうぞ。↓こちら。)
http://blog.so-net.ne.jp/chishu/2007-04-28-2
by chishu (2007-05-08 18:49) 

plant

chishuさん コメント&nice! ありがとうございます。
いや、まあ、読んでいる途中ではあまり考えないんですよ。
北海道は夏に一度行ったきりですが、本当に広い景色ですね。
by plant (2007-05-10 01:15) 

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