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『『こころ』は本当に名作か』(小谷野敦)

表題どおり、いわゆる名作のいくつかを批判しつつ、それ以上の数の作品を推奨した本。
文学作品のよしあしに普遍的基準はない、と主張しているのは良いのですが、この著者自身の判断基準には全く同意できませんでした。

そう言えば、と思って調べてみると、ちょうど1年ほど前に作品を酷評していました。(読書記録(2011年01月)中の『リチャード三世は悪人か』についての部分。)
どうやら、誰でもできるような仕事ばかりをしていながら、想像力を発揮した創造的な活動をバカにしている、という印象だったようです。
悪い意味でのアカデミズム・・・。

さて、今回の作品ではどうだったのでしょうか。
一言で言えば、悪い意味での文壇的批評。
表題から推察して、独自の批評眼を発揮して「名作」を批判しているのかと思えば、“人物が描けていない”とか“観念ばかりで経験による重みがない”とかいう使い古された言説を、巧みに言葉を変えて繰り返しているだけでした。

批判している作品・作家を並べてみると、分かりやすいかもしれません。
 『こころ』・ドストエフスキー・『魔の山』・『神曲』・志賀直哉・芥川龍之介・・・。

逆に、ほめたたえている作品・作家も並べてみます。
 『蒲団』・トルストイ・『プライドと偏見』・『イーリアス』・谷崎潤一郎・川端康成・・・。

確かに、観念と経験、という対比になっているのかもしれませんが、それがどうした、です。

もう少し具体的に例を挙げます。
かなりのページを割いているドストエフスキーの項では、日本人にはキリスト教が分からないから感動するわけがない、と書いてあります。
まあ、むやみに“人類的感動”やら“普遍的価値”やらを振り回すドストエフスキー批評には私もうんざりしていますが、経験がないから分からない、というだけの感想も、ずいぶん幼く見えます。
私が『カラマーゾフの兄弟』を面白く思ったのは、キリスト教やら革命やらに通じる象徴関係を発見しつつ、重層的な構造を自分で組みたてながら読むことができたからです。

それから、批判の根拠として、「同性愛的だ」という言葉を頻発しているのも気になります。
手塚治虫・三島由紀夫・大江健三郎・・・などに対する批評です。
一方で、川端康成については、少女愛傾向を指摘しつつも、なぜか批判していません。
普遍的判断基準はない、と最初に書いたじゃないか、と言われればそれまでですが、公の場での批評活動には、せめて一定の合理性を求める態度が必要ではないでしょうか。
(同性愛は嫌いで少女愛は構わない、という判断を、単なる嗜好表明ではない、と見せかける努力くらいはしたらどうか、という意味です。)
2012-02-05 16:33  nice!(4)  コメント(0)  トラックバック(0)  [最近読んだ本]

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